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4. 帰還の報せと、満月の影

Auteur: 月歌
last update Date de publication: 2025-12-22 19:45:34

景炎が出陣して三十日。

蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。

勝利の報せは届いた。

しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。

「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。

蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。

何度書いても、出す前に胸が疼く。

(殿下……どうして何の返事もくださらないの)

体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。

だから庭に出る。

ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。

けれど、心は晴れない。

そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。

「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」

「景炎の……殿下のお便りかしら!?」

期待が一気に胸へせり上がる。

しかし、梅香の顔色は真っ青だった。

「ち、違います。殿下が……本日中にご帰還なさるとのことです!」

「今日!?」

喜びが浮かびかけたその瞬間——

梅香は震える声で続けた。

「おそばには、例の……雪瓔という女が、ずっと付き従っているそうで……兵たちは、殿下が“離れようとしない”と……」

蘭珠の心臓が、きゅうっと縮んだ。

景炎が他の女を連れて帰ってくる。

その女を手放そうとしない——?

(うそ……そんなこと……)

信じたかった。

けれど不安が耳元で囁く。

最近、宮中での扱いが変わったのも事実だ。

侍女たちは、蘭珠の目を避けるようになった。

廊下ですれ違う宦官も、ひそひそと何かを言う。

——皇太子妃様も、ついにお終いだな。

——若くて美しい雪瓔様のほうがよほどふさわしい。

そんな声が、蘭珠の背中を刺していた。

「梅香……殿下は、本当に雪瓔という女をお連れに?」

「はい。ですが、それだけではありません!」

梅香は息を呑んだ。

「雪瓔の正体は……“蒼隼国の王子の愛妾”であったとか。

戦の最中、殿下の命を救い、さらに敵国の内部情報を漏らして勝利へ導いたそうです。兵たちは『傾国の美女』と……」

「傾国……」

国を傾けるほどの美しさ。

だが、蘭珠は思ってしまう。

(本当にただの美女……?)

あの日のことが頭をよぎった。

夜の回廊で聞いたあの囁き。

窓の外を漂った黒い影。

ありえない。

そんな馬鹿げたこと……でも。

蘭珠は胸に手を当てた。

脈が不規則に跳ねている。

「蘭珠様、景炎殿下が戻られたら……きっと、すぐにご妃様のお部屋に……」

「……いいえ」

蘭珠はそっと首を振った。

目を閉じ、深く息を吸う。

「殿下がどのようなお気持ちで帰られるとしても、私は……妃として、正しくお迎えいたします」

「そんな……」

「逃げても仕方がないわ。私は……殿下に選ばれた后なのですもの」

震える声で言いながら、蘭珠は自分に言い聞かせるように微笑んだ。

(大丈夫。景炎は、私を愛すると言ってくれた。

忘れるわけがない……忘れていてほしくない……)

だが不安は、喉の奥で小さく震え続けた。

そして夕刻。

城門が開き、勝ち鬨が上がった。

蘭珠は回廊の端から軍勢の列を見下ろしていた。

いつもなら、景炎の凛々しい姿が真っ先に目に飛び込んでくる。

だが今日は——胸がざわついて仕方がなかった。

風が吹き抜ける。

その風の中で、ふわりと何かの香りが漂った。

甘く、湿り気を帯びた、花とも血ともつかぬ匂い。

「……何?」

その瞬間、空気が震えたように感じた。

兵たちのざわめきの中から、一台の馬車が現れる。

その横には、馬上の景炎。

そして。

「……あれは……」

馬車の帷が揺れ、中から現れたのは——

雪のように白い肌。

黒曜石のような瞳。

風もないのに揺れる、艶やかな黒髪。

雪瓔。

蘭珠は息を呑んだ。

その女は、景炎のほうに体を寄せるように微笑んでいた。

景炎もまた——蘭珠の知る景炎ではない、硬く冷たい表情で雪瓔を守るように馬を寄せている。

(どうして……どうして、そんな顔を)

胸が痛い。

景炎があの女を見つめる目は、戦場に出る前、蘭珠を見つめていたものと同じ温度だった。

いや、違う。

もっと深く、もっと……狂おしいほどに惹かれているように見えた。

「殿下……?」

気付けば、蘭珠は手すりを握りしめていた。

爪が白くなるほど力を込めていた。

だがその時。

雪瓔がふ、と蘭珠の方向を見た。

距離はあるはずなのに、まるで目が合ったような感覚。

そして彼女は、蘭珠に向かって——妖しく微笑んだ。

次の瞬間。

耳元で、あの日と同じ囁きがした。

——戻ラナイ。

——アノ男ハ、もう戻ラナイ。

蘭珠はその場で震え上がった。

雪瓔の瞳はいっそ美しいのに、底が見えない。

深い湖のようでありながら、人のものではない冷たさを宿していた。

(……あれは、本当に人なの?)

景炎は、蘭珠を見上げようともしない。

雪瓔ばかりを見つめ、馬を進めていく。

梅香が蘭珠の腕を掴んだ。

「ら、蘭珠様……! 殿下が……」

「……ええ」

蘭珠はゆっくりと手を下ろした。

顔色が自分でも分かるほど真っ青になっている。

「殿下は……ご無事で……お帰りになりましたわ」

ただ、それだけ。

その言葉を言うのに、胸が張り裂けそうだった。

蘭珠の心の奥で、小さく何かが崩れた。

景炎が降り立つそのすぐ後ろ。

楚凌の姿が見えた。

ただ一人、蘭珠を心配するように見上げていた。

その眼差しに気づくことができたのは、蘭珠がこの日、すべてを失い始めたからなのだと——

後になって気づくことになる。

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