로그인景炎が出陣して三十日。
蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。
しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。 「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。
何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)
体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。
だから庭に出る。 ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。 けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。
「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」
「景炎の……殿下のお便りかしら!?」
期待が一気に胸へせり上がる。
しかし、梅香の顔色は真っ青だった。「ち、違います。殿下が……本日中にご帰還なさるとのことです!」
「今日!?」
喜びが浮かびかけたその瞬間——
梅香は震える声で続けた。「おそばには、例の……雪瓔という女が、ずっと付き従っているそうで……兵たちは、殿下が“離れようとしない”と……」
蘭珠の心臓が、きゅうっと縮んだ。
景炎が他の女を連れて帰ってくる。
その女を手放そうとしない——?(うそ……そんなこと……)
信じたかった。
けれど不安が耳元で囁く。 最近、宮中での扱いが変わったのも事実だ。侍女たちは、蘭珠の目を避けるようになった。
廊下ですれ違う宦官も、ひそひそと何かを言う。——皇太子妃様も、ついにお終いだな。
——若くて美しい雪瓔様のほうがよほどふさわしい。
そんな声が、蘭珠の背中を刺していた。
「梅香……殿下は、本当に雪瓔という女をお連れに?」
「はい。ですが、それだけではありません!」
梅香は息を呑んだ。
「雪瓔の正体は……“蒼隼国の王子の愛妾”であったとか。
戦の最中、殿下の命を救い、さらに敵国の内部情報を漏らして勝利へ導いたそうです。兵たちは『傾国の美女』と……」「傾国……」
国を傾けるほどの美しさ。
だが、蘭珠は思ってしまう。(本当にただの美女……?)
あの日のことが頭をよぎった。
夜の回廊で聞いたあの囁き。 窓の外を漂った黒い影。ありえない。
そんな馬鹿げたこと……でも。蘭珠は胸に手を当てた。
脈が不規則に跳ねている。「蘭珠様、景炎殿下が戻られたら……きっと、すぐにご妃様のお部屋に……」
「……いいえ」
蘭珠はそっと首を振った。
目を閉じ、深く息を吸う。「殿下がどのようなお気持ちで帰られるとしても、私は……妃として、正しくお迎えいたします」
「そんな……」
「逃げても仕方がないわ。私は……殿下に選ばれた后なのですもの」
震える声で言いながら、蘭珠は自分に言い聞かせるように微笑んだ。
(大丈夫。景炎は、私を愛すると言ってくれた。
忘れるわけがない……忘れていてほしくない……)だが不安は、喉の奥で小さく震え続けた。
◆
そして夕刻。
城門が開き、勝ち鬨が上がった。蘭珠は回廊の端から軍勢の列を見下ろしていた。
いつもなら、景炎の凛々しい姿が真っ先に目に飛び込んでくる。 だが今日は——胸がざわついて仕方がなかった。風が吹き抜ける。
その風の中で、ふわりと何かの香りが漂った。甘く、湿り気を帯びた、花とも血ともつかぬ匂い。
「……何?」
その瞬間、空気が震えたように感じた。
兵たちのざわめきの中から、一台の馬車が現れる。
その横には、馬上の景炎。そして。
「……あれは……」
馬車の帷が揺れ、中から現れたのは——
雪のように白い肌。 黒曜石のような瞳。 風もないのに揺れる、艶やかな黒髪。雪瓔。
蘭珠は息を呑んだ。
その女は、景炎のほうに体を寄せるように微笑んでいた。
景炎もまた——蘭珠の知る景炎ではない、硬く冷たい表情で雪瓔を守るように馬を寄せている。(どうして……どうして、そんな顔を)
胸が痛い。
景炎があの女を見つめる目は、戦場に出る前、蘭珠を見つめていたものと同じ温度だった。いや、違う。
もっと深く、もっと……狂おしいほどに惹かれているように見えた。「殿下……?」
気付けば、蘭珠は手すりを握りしめていた。
爪が白くなるほど力を込めていた。だがその時。
雪瓔がふ、と蘭珠の方向を見た。
距離はあるはずなのに、まるで目が合ったような感覚。 そして彼女は、蘭珠に向かって——妖しく微笑んだ。次の瞬間。
耳元で、あの日と同じ囁きがした。
——戻ラナイ。
——アノ男ハ、もう戻ラナイ。蘭珠はその場で震え上がった。
雪瓔の瞳はいっそ美しいのに、底が見えない。
深い湖のようでありながら、人のものではない冷たさを宿していた。(……あれは、本当に人なの?)
景炎は、蘭珠を見上げようともしない。
雪瓔ばかりを見つめ、馬を進めていく。梅香が蘭珠の腕を掴んだ。
「ら、蘭珠様……! 殿下が……」
「……ええ」
蘭珠はゆっくりと手を下ろした。
顔色が自分でも分かるほど真っ青になっている。「殿下は……ご無事で……お帰りになりましたわ」
ただ、それだけ。
その言葉を言うのに、胸が張り裂けそうだった。蘭珠の心の奥で、小さく何かが崩れた。
景炎が降り立つそのすぐ後ろ。
楚凌の姿が見えた。 ただ一人、蘭珠を心配するように見上げていた。その眼差しに気づくことができたのは、蘭珠がこの日、すべてを失い始めたからなのだと——
後になって気づくことになる。東門の近くにある小さな家は、楚凌が「屋敷」と呼んだのが不思議に思えるほど質素だった。瓦屋根はところどころ欠け、門には錆びた蝶番。庭と呼ぶには狭すぎる土の空き地があり、その奥に古びた井戸がひとつ。誰かが住んでいた形跡はあるが、長く人が入っていないのか埃が薄く積もっている。蘭珠は玄関に立ちつくした。(ここで……生きていくのね)宮中の煌びやかな廊下も、侍女たちが運んでくる温かい湯茶も、彼女にはもうない。楚凌はそんな蘭珠の様子に気づき、気まずそうに視線をそらした。「狭く……古い家で申し訳ございません。将軍官舎を退くよう命じられ、東門番の官舎が空いていたため……ここに、二人で住むこととなりました」蘭珠は静かに辺りを見回す。皇太子妃だった蘭珠は、今や東門の門番の妻。その落差が胸に刺さったが、楚凌の言葉には責める色が微塵もない。ただ、申し訳なさと不器用な優しさだけがあった。「いえ……住むところがあるだけで、ありがたいわ」そう返したが、不安がつのる。楚凌は袖まくりをして言う。「今日は交代制で休みですので……できるだけ家を整えます。蘭珠様は、お身体をお労わりください。妊婦の身で無理は禁物です」「……でも、私も何か……」「休んでください」いつも穏やかな楚凌にしては珍しい、はっきりとした声音だった。蘭珠は口を閉じるしかない。楚凌はまず窓の板を外し、布で埃を拭き始めた。ぎこちない所作だが、丁寧で、真面目な性格がそのまま出ている。誰かに動いてもらうことに慣れすぎた蘭珠は、ただ立っているしかなかった。(どうして……下働きの者がいないの?)この屋敷は楚凌の家なのだから、最低限の使用人がいてもいいはずだ。思い切って尋ねる。「楚凌……こちらに、お手伝いの方はいらっしゃらないの?」楚凌の手が一瞬だけ止まった。「……東門の門番となってからは俸給が大きく減り、使用人を雇う余裕がございませんでした、家財のほとんども処分しました」言葉は淡々としているのに、その肩がわずかに落ちたのを蘭珠は見逃さなかった。胸の奥がきゅうっと痛む。(私のせいで……この人まで)景炎に疑われ、離縁され、宮中を追われた。その余波は、自分を救おうとしてくれた楚凌にまで及んでいる。なのに楚凌は不満も愚痴も言わず、黙々と家を整えている。その背中があまりにもまっすぐで、蘭珠は言葉
蘭珠が宮殿の門をくぐった瞬間、背後で重く扉が閉まった。その音は、まるで「お前はもう宮中の人間ではない」と告げる裁きの鐘のようだった。「蘭珠様……こちらへ」楚凌が一歩前に出て、軽く頭を下げる。彼の声は以前よりも低く沈み、目の奥にどこか痛ましい影があった。(楚凌……殿下の命に逆らえず、わたくしの“新しい夫”にさせられてしまったのよね)婚姻など望んでいなかった。望むはずがない。だが、景炎は蘭珠への怒りを鎮めるどころか、「密会していた男女は罪を負って結ばれろ」と言わんばかりに命じた。雪瓔が告げた“夢の予見”を盲信し、蘭珠と楚凌の清き関係を、根本から穢したのだ。「……行きましょう」楚凌が静かに言う。宮殿前に用意されたはずの輿(こし)は、どこにもなかった。侍女たちに尋ねても、「追放された妃に必要ございません」と冷たく言い放たれた。宮中にいるときは、どこへ行くにも輿だった。外の塵に触れることなど、ほとんどなかった。それなのに――「歩いて……行くのですか」蘭珠の問いに、楚凌は目を伏せてうなずいた。「申し訳ございません。俺も、輿を出す立場では……もう」将軍職を取り上げられ、楚凌はただの“元将軍”となった。護衛らしい護衛もいない。二人きりの追放劇だった。蘭珠は歩き出した。楚凌が半歩後ろからついてくる。石畳を踏みしめるたび、胸の奥で何かが砕けていく。(……こんな形で宮中を出る日が来るなんて)寒風が衣をはためかせ、髪を乱す。華やかな宮殿の景色は、背後で遠ざかってゆく。ふと、楚凌が懐から一通の封書を取り出した。「……蘭珠様。これを……お預かりしております」蘭珠は受け取り、封に押された紋を見て息を呑んだ。蘭家の印。つまり――実家からの手紙。手が震えた。それでも、封を切る。『蘭珠へ本日をもって、我ら蘭家はそなたとの親子の縁を断つ。夫を欺き国恥となる行い、家の名を穢した行い、到底許しがたい。以後、蘭家の者を名乗ることも、敷居をまたぐことも許さぬ。蘭家当主 蘭 祁山』一文字ずつ、刃となって胸を裂く。蘭珠はその場に立ち尽くした。紙が風に揺れ、手を離れそうになる。「……もう……わたくしには……」声が出ない。楚凌が、そっと手を差し出した。「蘭珠様。……こちらへ」その手は、大きく、逞しい。でも決し
景炎の怒号が、後宮の静けさを破ったのは、春の風が落ち着かない夜のことだった。「蘭珠! 余の前へ出よ!」寝所で文を書いていた蘭珠は、手を震わせて立ち上がった。 声が怒りに濁っている。こんな景炎の声を聞くのは初めてだ。胸がずくりと痛む。(殿下……どうされたの……?)扉が激しく開かれた。 景炎が立っていた。金の瞳が燃え上がったように怒りに濁っている。 その後ろに雪瓔が控えていた。薄い白衣が風に揺れ、微笑んだように見えた。「殿下……?」蘭珠が一歩近づこうとした瞬間、景炎は冷たく手を払うような仕草をした。「近寄るな」その声音に、蘭珠は息を呑む。「楚凌と……何をしていた?」心臓が止まる。(楚凌……?)思い浮かぶのはただひとつ。 あの日。景炎の変化に怯えていた蘭珠は、楚凌に不安を吐露してしまった。楚凌はただ、静かに励ましてくれただけなのに。「殿下、その……誤解ですわ。楚凌将軍とは、ただ……」「黙れ!」景炎の怒声が、蘭珠の胸を貫く。「雪瓔が“夢で見た”のだ。お前が楚凌と人目を避けて会い、密やかに情を交わすのを」雪瓔は景炎の背後で俯き、細い肩を震わせている。 悲しげに震える仕草が、景炎の怒りをさらに煽る。「殿下……! 楚凌殿と情を交わすなどありえません。雪瓔様の夢見の力など信じてはなりません!」「雪瓔の夢見は戦場で何度も余を救った! 嘘などつくはずがない!」(嘘をついているのは、雪瓔様です……!)叫びたい。 けれど、景炎はもう蘭珠の言葉を聞いていなかった。「蘭珠、お前を妃とは認めぬ。離縁する!」その瞬間、足元が崩れ落ちたような衝撃が蘭珠を襲った。「り、離縁……? 殿下……私たちは……子を授かったばかりですのに……」震える声。 胸が軋む。呼吸が苦しい。景炎の瞳には、もはや一片の慈しみもなかった。「子など……俺の子とは限らぬ」「……!」言葉が出なかった。 景炎の口から、そんな疑いが出るなど思ってもみなかった。(殿下……どうして……私たちは、あれほど……)あの日の甘い誓いが、胸を刺す。 戦へ向かう朝、景炎の手が、蘭珠の腹を優しく撫でた感触。すべてが幻のように遠ざかる。雪瓔がそっと景炎の袖に触れた。「殿下……あまり強く言っては、蘭珠様が……」「雪瓔、お前は正しい。悪いのは妃だ」雪瓔は蘭珠を見て、涙を浮かべたように微
翌朝の後宮は、薄い霧に包まれていた。東殿の朝露に光が宿り、細い風が簾を揺らす。蘭珠は、寝台から起き上がれずにいた。胸の奥に残っているのは、昨夜の景炎の冷たい目と声。(……わたくしを、疑った……)腹に手を添える。まだ小さな命は確かにそこにいるのに、景炎の視線はその存在さえ拒んだ。「蘭珠様……お水をお持ちいたしました」侍女の梅香が台を運んできたが、蘭珠は首を振った。「梅香。お願いがありますの」「……何でございましょう?」「楚凌将軍を……呼んできてちょうだい。ここではなく、庭の東屋へ」梅香は驚いて目を丸くした。「後宮へ、男性を……?」「私室ではありませんわ。庭です。昨日の……殿下のご様子を、どうしても確かめたいのです」梅香は心配そうに頷き、そっと走り去った。蘭珠はゆっくりと立ち上がった。歩くたび腹が重く感じる。だが、胸の不安がもっと重い。(殿下……どうして。なぜ雪瓔様の言葉など……)庭に出ると、東屋の白木が朝の光の中で淡く輝いていた。まだ冷たい大理石の床に軽く手をつき、蘭珠は深呼吸をする。ほどなくして、楚凌が姿を見せた。将軍服のまま、背筋を伸ばし、東屋へと歩み寄るその姿は、昨夜よりずっと凛としていた。「お呼びとのことで参りました。皇太子妃殿下、お身体の具合はもう……?」昨日の馴れ馴れしさは一切ない。楚凌は正しい距離と礼を守り、蘭珠へ深く頭を下げた。「楚凌将軍、急に呼び出してごめんなさいね」「いえ。殿下の妃のお言葉とあらば」楚凌は蘭珠と目を合わせずに控えめに立つ。その姿に、蘭珠はようやく“今の自分はまだ皇太子妃なのだ”と実感した。「話したいことが、ございますの」蘭珠の声は震えていた。楚凌はその震えに気づいたが、あえて表情を崩さない。「殿下の……最近のご様子、あなたはどう見ているのかしら」楚凌の瞳がわずかに揺れた。「……殿下は、戦から戻られて以来、どこか……以前とは異なっておられます」「やはり……」「ただ……妃殿下。これは私個人の感想にすぎません。殿下は戦で多くのものを背負われ、雪瓔という方の“助言”を重く見ておられるようで……」蘭珠は唇を噛む。景炎が信じる“夢見の力”。雪瓔は自分を一度も見ていないのに、「妃が男と密会していた」と夢に見たと言ったという。(そんな馬鹿な話……でも、景炎は信じて
景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。(……この人……人ではないような……)だが景炎は、それに気づかぬ様子だった。「殿下……お帰りなさいませ」精一杯の笑みを浮かべて声をかける。景炎は短くうなずき――そして、雪瓔を振り返る。「疲れていないか、雪瓔」「ええ、殿下のおそばなら……」その声音は澄んでいて、妙に響く。蘭珠の胸が締め付けられた。(殿下は……なぜ。私よりも、あの方を……)蘭珠は勇気を振り絞り、一歩前へ。「殿下。お怪我はありませんか? わたくし……ずっとご心配しておりました……」景炎の瞳が向く。その目に、蘭珠は愛情の欠片を探した。だが――そこにあるのは、ただ冷たく曇った色。「……そうか」(……“そうか”?)胸が冷える。言葉があまりにも遠い。以前の景炎なら、真っ先に蘭珠を抱きしめたはずだ。蘭珠は震える声で続けた。「殿下、まさか……わたくしの手紙、届いておりませんでしたの……?」問いかけたとき、景炎の眉がわずかに動いた。「届いていた。だが……余は忙しかった」「それだけのことでしょうか……?」その瞬間、景炎の声が鋭くなった。「蘭珠。雪瓔が“夢で見た”という」蘭珠の血の気が引いた。「……ゆめ……?」隣で控えていた雪瓔が、蘭珠を一度も見ず、静かに景炎へささやく。「殿下、無理にお話しなさらずとも……蘭珠様を責めたくて申し上げたことでは……」その声は、確かに優しい。優しいのに、妙に空虚で、生気が薄い。景炎は雪瓔の手を取った。「いや、伝えねばならぬ。雪瓔の“夢見の力”は確かだ」蘭珠の胸が大きく波立つ。景炎は続けた。「雪瓔は言った。余が戦へ赴く前夜、宮中の庭
景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせり上がる。しかし、梅香の顔色は真っ青だった。「ち、違います。殿下が……本日中にご帰還なさるとのことです!」「今日!?」喜びが浮かびかけたその瞬間——梅香は震える声で続けた。「おそばには、例の……雪瓔という女が、ずっと付き従っているそうで……兵たちは、殿下が“離れようとしない”と……」蘭珠の心臓が、きゅうっと縮んだ。景炎が他の女を連れて帰ってくる。その女を手放そうとしない——?(うそ……そんなこと……)信じたかった。けれど不安が耳元で囁く。最近、宮中での扱いが変わったのも事実だ。侍女たちは、蘭珠の目を避けるようになった。廊下ですれ違う宦官も、ひそひそと何かを言う。——皇太子妃様も、ついにお終いだな。——若くて美しい雪瓔様のほうがよほどふさわしい。そんな声が、蘭珠の背中を刺していた。「梅香……殿下は、本当に雪瓔という女をお連れに?」「はい。ですが、それだけではありません!」梅香は息を呑んだ。「雪瓔の正体は……“蒼隼国の王子の愛妾”であったとか。戦の最中、殿下の命を救い、さらに敵国の内部情報を漏らして勝利へ導いたそうです。兵たちは『傾国の美女』と……」「傾国……」国を傾けるほどの美しさ。だが、蘭珠は思ってしまう。(本当にただの美女……?)あの日のことが頭をよぎった。夜の回廊で聞いたあの囁き。窓の外を漂った黒い影。ありえない。そんな馬鹿げたこと……でも。蘭珠は胸に手を当てた。脈が不規則に跳ねている。「蘭珠様、景炎殿下が戻られたら……きっと、すぐにご妃様のお部屋に……」「……いいえ」蘭珠はそっと首を振った。目を閉







